備中寺山城跡・関連資料

周辺に残る遺構など関連資料


吉祥寺 
応永15年(1408)、三好尊春が建立したといわれる禅宗寺院であるが、難波六郎経俊を開基と伝える記録もある。境内地に当時の面影はないが、尊春の位 牌が伝えられている。表面に「当山開基吉祥寺殿傑叟是雄大禅定門 当山中興開基一峯円月大居士 尊霊」、裏面に「嘉吉元年九月十四日薨川面城主三好阿波守 殿」とある。この位牌はおよそ200年前に寺院火災で焼失した後、新調されたものといわれている。なお、吉祥寺から約250m南下した道沿いには 「大 門」、「惣門」の地名が残っている。吉祥寺の山門があった場所だろう。



殿 様墓 (写真)

吉祥寺境内の北側斜面地にある。大小10基ばかりの五輪塔・宝篋印塔が立つており,城主三好尊春とその一族の墓と伝えられる。高さ1.5mほどのひときわ 大きい石塔が尊春の墓といわれるが、宝篋印塔と五輪塔の部材が入り混じっており、石材も花崗岩、粉米石の二者がある。元の状態を保つている石塔は少ない。



◎千黒塚

寺山城南東の山裾にある。小さな祠が祀られ、その前に昭和28年5月に建てられた石碑がある。
石碑には、元亀元年(1570)、成羽城主三村家親(元親の誤りか)が寺山城を攻めた際、激戦の末千人の死者を出し、村人がその首を黒焼きにしてこの地に 埋め、慰霊のために備中高松稲荷を勧進したということが刻まれている。



備 中川面古城絵図(絵図資料添付)

亀山市歴史博物館に所蔵されている絵図で、縦41.ocm、横55.4cmのちいさなものである。
製作年代は不明だが、石川氏に伝えられた資料であることから、石川総慶が松山藩主として在任した18世紀前半の製作であろう。
右上に「備中川面古城 三好阿波守尊春守之 嘉吉年中落城由」とある。下には「松山川」(高梁川)が描かれ、その北岸に「川面宿」、そこから城へ向けての 道が赤線で示されている。
当時「川面古城」として認識されていた範囲を知ることもでき、興味深い。「東の丸」の北側に独立した小規模な郭が描かれており、今回の測量範囲外になるが 注意を要する箇所である。

◎まとめ
文献史料に見える寺山城は、平安〜鎌倉時代の難波氏、室町時 代の三好氏、そして中世末期の備中兵乱などがあるが、非常に断片的で互いに繋がらない。

備中兵乱の記述については各史料で一致するが、三好氏の伝説は江戸時代中期頃に突然現れ、代わりに難波氏の伝説が薄れていく。鎌倉・室町時代の城主等につ いては不明な点が多い。

表面採取された遺物を見ると、室町時代のものが多い中で、一部、鎌倉時代にさかのぼるものも認められる。これらは必ずしも城に関わる遺物と断定できない が、中世の比較的長い期間にわたつてこの山が使用されたことは確かなようである。

さて、寺山城の遺構に目を移すと、合計50 を超える郭が丘陵上に配列され、その縄張りは東西650mに及んでいる。非常に大規模で、備中松山城や、備中最大といわれる新見市楪城には及ばないまで も、それに次ぐ規模である。

中世末期、毛利と織田の代理戦争ともいわれる備中兵乱において、毛利軍の前衛基地として使用されたことは確かなようであるが、その時の使用期間は20日に 満たない。

大規模な寺山城の遺構を見ると、備中兵乱だけで寺山城を語るのには無理があり、それ以前の鎌倉、室町時代の歴史の中で寺山城を位置づける必要もある。

川面地区は、高梁川左岸に比較的広い平地あるいは緩斜面をもつているために、古くから継続して人々が居住しており、また河川、陸上交通の要衝でもあった。

寺山城は、この地を基盤として成長した在地の有力武士層(領主)によって築城、維持され、その時々の情勢に応じて改造、拡張が繰り返されたものと考えられ る。「東の丸」及び「馬場」は、「本丸」や「西の丸」に比べると郭一面の面積が広く、また郭の形態、配列ともに整然とした印象を受ける。

このような差異が築成、整備年代の違いを示している可能性も考えられる。