備中川面寺山城跡・寺山城略史
寺山城略史

寺山城略史


寺山城に関する記録は少なく、その歴史は必ずしも明らかでないが、難波六郎経俊を 城主と伝える記録がある(『備中誌』、『吉祥寺嘆願書』(下の写真右側)など)。

平安時代の平家の功臣、あるいは鎌倉時代の人物とも言われ、経俊の後、経清、経里、親経らが居城したと伝える。
また一方、応永年間(1394〜1428)、三好阿波守尊春の居城を伝える記録もある(『備中川面古城絵図』、『上房郡誌』など)。
応永15年」(1408)には城の南麓に招宝山吉祥寺を建立し、嘉吉元年(1441)に尊春が没するまで在城したという。
時の松山城主、秋葉氏に滅ぼされたともいわれている。
いずれにしても鎌倉・室町時代の寺山城主については不明な部分が多い。

その後、千黒塚(後述)の碑文によれば、元亀元年(1570)、成羽城主三村家親(元親の謝りか)が寺山城を攻め、周辺で激戦が繰り広げられたという。
元亀2年(1571)、重知が寺山城に入城している。

天正2〜3年(1574〜75)、松山城主三村元親が毛利勢と戦った「備中兵乱」では、毛利軍の攻勢により、重知は寺山城から松山城へ撤退する。毛利軍の 小早川隆景は寺山城へ総陣を移し、付近一帯の青麦を刈り取り、松山籠城の元親軍を兵糧攻めにしたという。
この戦いで重知は毛利軍へ投降し、松山城は落城、三村氏は滅んでいる(『備中兵乱記』)。